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about ROUZAN

 古萬古(こばんこ)といわれているものは、桑名の豪商沼波弄山(ぬなみ・ろうざん)が伊勢および江戸で作った陶器のことである。萬古の窯は一度廃れたが、後世再び興った萬古焼に対して弄山の時代の作品をこのように呼ぶ(別称弄山萬古)。

 弄山は名を重長、通称五左衛門、方寸斎(寸法斎ではない)とも称した。享保三(1718)年に生まれ、安永六(1777)年に江戸小梅で病歿、六十歳(墓所深川本誓寺:西誉法岸道一居士)。このことは沼波家に伝わっていた弄山肖像画安永七年秋の讃や安達新兵衛が弄山の子息にあてた消息文(戦災で消失)によって明らかになっている。

 桑名の豪商沼波家は天正、慶長の頃から続く家柄で、久波奈名所図会にも載っている名家である。出は美濃大垣ともいう。また家業は陶器商で(屋号が萬古屋であったとされるが不明)、妻は八百(やお)といい、南勢射和村(いさわむら:現在の松阪市)の豪商東竹川家の出。弄山の妹は江戸時代日本有数の富豪で道具道楽でも知られた桑名の山田家に嫁いでいる。山田家には弄山の娘も嫁いであり、沼波家とは重縁で結ばれていた。

 弄山自身は表千家六代覚々斎・七代如心斎について茶道の手ほどきを受けたとされる。当時の趣味人については茶の湯の道から自らの茶碗を作る過程に行くことは余り特別でなかったと思われ、弄山も趣味が高じて自ら作陶する道に入ったと考えられる。このような環境から弄山は天文年間(1736~40・18~20歳)に趣味で邸内に窯を設けて楽焼の類を作ることになる。

 陶工としての弄山はどのようなものであったか詳しくは不明である。「陶器考」には「桑名ノ豪家ニテ寸方斎(ママ)ト云原叟宗佐ノ門人ニテ陶工ニアラズ」と書かれており、職人でなく芸術家として陶芸に携わり、窯を運営していた窯元的存在であったということも考えられる。(註7)しかし当時の一流文人で茶の湯、茶道具に馴れ親しみ、京都に出て行くことも多かったと考えられること、彼自身が萬古焼を始めたのが十代後半から二十代前半ということからも、実際自身の手で土を捏ね、轆轤を回して作陶していたと考えた方が面白い。

 江戸の窯場については不明であるが、伊勢の窯場は近年発掘され、出土品も数多く出たようであるが、そのなかにはあまり古萬古特有の白化粧で色絵の施されているものはないとのことである。また江戸での萬古焼は相当高値で商売にならなかった話(「新編武蔵風土記稿」)、元来採算度返しで作陶したため愛玩者や同好の志に配ったということもいわれている。そのことより白化粧された色絵の作品は、成功する頻度も低く、商売でなく弄山個人の趣味であったこと、成功した上品のみ残し、失敗作は欠片も残さなかったほどこだわりを持っていたことが推測できる。

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