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mysterious BANKOHUEKI

 

ROUZAN,SYUHEI,San-A

 弄山のもとで萬古焼の関係者として名を残している者は、江戸の番頭安達新兵衛、萬古館次郎こと柿沼文則、瑞牙良助が確かな人物としてあげられる。「日本陶器目録」には「彼(弄山)は十八世紀の後半に死去しました。彼の息子の1人が少しの間一緒に製作をしていたが、沼波の死後は、使用人がしばらくの間制作を続けました。」とあり使用人というのが安達新兵衛と思われる。彼の息子というのは誰か不明であるが、弄山次男の萬蔵(跡取りの長男惟長は陶芸に興味がなかったことから除外)か、もしくは弄山妻八百の甥竹川政信なども考えられる可能性があるといえる。

 安達新兵衛は安周平ともいい、「萬古由来書」によると、弄山死後、江戸での萬古焼の手配を全般に指揮していたことがわかる。また彼自身箱書を書き、方形枠「萬古」印は彼の作品に押印したこと、弄山子息からの依頼で弄山肖像を描き、「誠に生前に遂御対顔候様に被存落涙いたし申候」といわれるほどのものであったこと(子息に宛てた書翰には俳句も詠まれている)から、彼自身も弄山に劣らない文人であったことが分かる。

館次郎は江戸での作陶に功のあった陶工と思われる。後述する将軍台覧を受け、「楽焼本焼陶器薬秘集」と題するものを書き残したとされる。柿沼文則は萬古の釉薬の処方を行っていたらしく、文則が館次郎であると奥書に書いてあるのもこの本であるとされている。館次郎は江戸で活躍したと思われ、子の新蔵も江戸萬古に関連していたことが安達新兵衛と弄山子息との書翰より伺われる。

 瑞牙良助は、古萬古作品のなかでも紀年銘のあるものに作者として名を残している。現在明らかになっている紀年銘のある作品はどれも弄山死後のものばかりであり、今のところこのような人物はこの瑞牙のみである。彼は古萬古の中でも特別な存在であったらしく、弄山の弟という説もあるくらいで、江戸の新兵衛・館次郎と違い、伊勢で作陶を続けていたらしい。また藤堂藩より招かれ安東焼の開窯にも関係し、安東焼仙盞瓶に「亨和二 安東 瑞牙 手作」(亨和二年は1802年)の紀年銘が伝世している。瑞牙についてはもうひとつ興味深い箱書がある。神戸市立博物館所蔵「藍絵ライオン文水指」の箱蓋に「萬古焼 勢州桑名之人名三阿 号萬古一説云初於津 製陶器号安東」とあり、三阿という桑名の出身で萬古と安東に関連した人物について書かれている。この箱は共箱であると思われるが、墨書が作成当初にかかれているかは不明である。がいまのところ最も三阿に近い人物として良助という可能性もあるのではないかと思わせる資料である。

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