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japanese pottery BANKO
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次に「萬古」という称についてであるが、沼波五左衛門弄山と萬古の関係について考えてみる。なぜ「萬古」かということに関して江馬活堂(一八〇六~九一)著「藤渠漫筆」に、
「同人之家今萬古と称し陶器を巧ニ製須世人の知留所也又萬古之古能字ハ玄古能古の字を襲候ことならん」
また活堂の別書「近聞雑録」にも上註で
「萬古の古の字玄古の古の字を取れるもの歟」
とある。本来沼波家は美濃大垣に根を下ろした土豪で、菅原姓を名乗っていた。その沼波家では関ヶ原の戦いの時、分家の「沼波玄古秀實」という人物が出て、大 垣城の攻防戦で弟と甥とともに活躍し、一門の名誉を挙げた。そのことから玄古系の子孫は「古」という字を大切にしていたとのことで、沼波五左衛門が陶器の ブランド名を付けるときに「萬古」としたと伝わっている。
他に沼波家については、
「右沼波五左衛門之家桑名ニ移連留ハ氏家左京亮(4)大垣より桑名江所替被致候二付同所へ附添集留哉ニ被存候」
と大垣の出身で桑名の沼波家は分家であることが載せられている。桑名の沼波家自体も近世初期に初代五左衛門が確認され、それ以前については遡れないとのこと から、この藤渠漫筆にあることは間違いないと思われる。今のところ嫡流でなかった沼波玄古と桑名に移った沼波分家初代が同一であったという資料はなく、 はっきりしない。
この藤渠漫筆の記述は、沼波弄山の陶匠名よりブランド化した萬古を屋号にしたとも考えられる一つの論証といえる。
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