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 萬古の印は、仁清などのやり方と同じく、高台にもっていって印を捺している。印を捺すことは楽焼以外では仁清が初めてとされ、その系統が京焼に受け継がれて行っているということがいえる。萬古印についてはどの研究書もその印について作品の区分を明確にはできないといっている。しかし、今後作品の形状、色絵の具合、箱書等とともに拾って行けば有る程度の区分けは可能で有ると思われる。以下にこれまでの資料にどのような説明がなされているかをあげてみる。

 「陶器考」には萬古印について横書丸枠隷書体一種、枠無し縦書一種、方形枠の萬古不易印が一種掲載されている。「本朝陶器攷證」には有節の書翰を掲載した後に萬古印が横書隷書体一種、縦書で枠有りが三種、枠無し二種、方形枠萬古不易印が一種と乾山を模した書銘一種が掲載されている。「観古図説」には萬古または○に萬古の印を用いたとあり、「日本陶器目録」には丸い形の印は江戸萬古に含まれると考えられてきたが、そうともいえないこと、陶器の研究から一番古い形式のものには小判形の枠がない印を帯びていること、「萬古不易」の印は蜷川氏が古萬古であるといっているが、再興萬古の森有節の弟千秋の作品に不易萬古として捺されたといっている。それ以外にも根拠は不明で有るが安達周平は四角い輪郭の中に萬古という印を捺している、古いものは中に捺さずに縁に捺す、大型の隷書萬古⇒小さい枠なし萬古⇒小判型輪郭あり萬古へと変化した(いずれも彩壺会講演会:大河内正敏著)等がある。

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 「萬古不易」印は、現在古萬古の印として認められているが、「日本陶器目録」にてモースは確たる根拠がないといっている(一つだけ疑わしいものを除いてはとある)。またモースは再興萬古の森有節の弟千秋の作品に不易萬古として捺され、不易萬古とは、有節の弟千秋が作った陶器のことを総称しているとも主張している。同様に「日本陶工傳」森與兵衛条に、

「製品には萬古又は萬古不易の印を押せり。此の萬古不易の印は、初代弄山、有節、竹川竹斎等各之を用い、與兵衛のみ之を用ひしにはあらざれども、與兵衛の號が偶(たまた)ま不易なるを以て、往々にして萬古不易の印は森不易のみ之を使用したりと思惟せるものあり。而かも弁は非事なり。」

とあり、方形枠萬古不易印が森與兵衛の印として掲載されている。

「萬古不易」印は、古い萬古の精神を受け継ぐ必要があった有節千秋兄弟が、作陶の初めの時から使用した印であったと思われる。千秋作のものには「千秋不易」という印もある。

これらのことから、芭蕉の千歳不易に被けて「萬古焼の萬古は萬古不易より採用」というキャッチコピーとともに「萬古不易」印も有節らによって流布されたと考えられるのである。

 よって、一部を除いて(字形は後述)、古萬古として伝わっている作品についても「萬古不易」印は有節萬古のものと考えられるのである。

 ただ、モースも言っているように、全てを有節萬古とすると、筆者も疑義の残る作品がある。三重県指定文化財の鉄釉瑠璃釉流御神酒器である。小向神社伝世の由来や作品の特徴からも、有節萬古とするには難しい。

 このことについて沼波氏関係資料の中で一点気にかかる文書がある。沼波弄山遺影の裏に添付されていた弄山子息連名の消息文である。文中に弄山の子らが安達新兵衛に宛てた手紙に、「萬古之不易云々」の文字が表れている。萬古不易に関しては、蕉風俳句より言われ始めたものでなく、それ以前より久しく言われていた言葉である。

 この安達新兵衛消息文中の「萬古之不易」は、「萬古焼が永遠に続く」という文脈でなく、『「萬古」=「弄山」の遺志が後世まで伝わっていく』という意味と思われる。そこから、安達新兵衛が弄山死後、弄山の遺志を継いで創作していった特別な器に「萬古不易」の印を使ったのではないかと思われる。やはり萬古不易印を最初に使ったのは、古萬古の作品であったといえるのである。

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