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●弄山の陶匠名(窯ブランド名)説

 一般的に陶器に付けられている名称は、土地・地域の名がつくことが多く、国名 からついている薩摩焼、備前焼、美濃焼や、地域から唐津焼、伊万里焼、瀬戸焼、常滑焼、京焼などがあげられる。また窯ブランド名を採るものもあり、仁清、 乾山、道八、木米等が有名なところである。これら仁清・乾山等は人名称としても定着している。

 乾山と萬古の作陶上のつながりは往々にして話題にものぼり、関連する文献も伝わっている。

 弄山の色絵については乾山の伝法に基づいたものといわれ、その証左として「陶器密法書」(とうきみっぽうしょ)があげられている。二代乾山猪八の陶器制作説 明書とされ、内容、著者について真偽のほどは不明であるとされていたが、近年内容について年代上の特別な誤りはないのではないかとされている。現在写本の写本が伝わっており、その写しを作ったものの奥書として「萬古堂三世 淺茅生隠士三阿」の署名と寛政四(一七九二)年の年紀がはいっている。奥書の内容が萬古焼にとっては重要で、御室乾山の弟子清吾より京都で弄山がこの密法書を貰い受けたこと、萬古が三阿に至る三代続いていること、伝来した密法書を「仰せ 黙しがたく」献上することが書かれている。

 また「観古図説」には、

「萬古焼の初めは、尾形乾山の門人で、京都においてその技を学び、宝暦の頃(一七五一~六三)江戸に来たが、江戸小梅村で製陶しだし、専ら中国明の万暦年製の物を標準にして作っていた」

とし、「日本陶器目録」には、

「沼波氏は五左衛門といい、裕福な人で桑名に住んでいました。華道を学び、のちに陶器製作を試みました。彼は京都で乾山に弟子入りしたといわれており、もしこれが事実ならば、乾山が一七四三年に死去していることから、沼波の作品の年代を知る手がかりを得ることができます」

としている。塩田力蔵の「日本近世窯業史」には、

「技術の系統としては、京都或は江戸の乾山焼、並に交趾及び和蘭の軟陶類とも関係を有し、尚ほ近くは尾張の常滑焼と多少の交流あるが如く」

とあり、近世末から一般的に京焼の系統に属していることが認知されていたと思われる。

 京焼の技の萬古への伝播は文献以外にも平成十七(二〇〇五)年に朝日町によって発掘された古萬古窯趾の形態(窯構造)や、陶片により右回転の轆轤成形、釉下白泥による化粧掛け、素焼工程の存在、京都と同じ三種の窯道具の使用などが確認され、弄山の時代に京焼の技術を導入して焼かれたことが判明している。

 また窯の形態については、萬古前身のやきものである桑名の信行焼について書かれた「森田九右衛門日記」に、

「桑名焼仕候所は御城元廿五丁ほと山中也、釜六つ有り、薪松木、かまのやうたい京やきのことく」

と書かれていることもあり、萬古焼当初から素地があったことも京焼と興味深い関係が伺われる。

 これらのことより推察すると、印の捺し方から銘の付け方についても乾山の仕様を倣ったと考えることは自然であるといえる。器に印銘を捺すようになったことに ついては仁清、乾山が楽焼以外で先駆け的存在といえよう。乾山は、書簡等には権平、「深省」号を使用し、やきものには窯が京都の北西「乾」の山に築いてい たことから「乾山」という号を用い、他の自らの号と使い分けていることは周知のことである。よって弄山についても、これに倣い陶匠、ブランド名として「萬 古」と号したとも考えられるのである。つまり「萬古」銘を捺したやきものが「萬古焼」と呼ばれるようになり、その萬古焼を扱う陶器商として沼波家が「萬古屋」、「萬古堂」と屋号に用いるようになったのではないかと思われる。

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