japanese pottery BANKO
since EDO genbun 1736
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萬古焼は、桑名の豪商沼波五左衛門弄山が元文年間(1736~1740)に始めたもので、その作品は後に再興された萬古に対し古萬古と呼ばれている。弄山は幼年期より表千家で茶道の手ほどきを受け、数寄者の習いとして作陶するようになったと考えられる。その後江戸に移り、将軍家の注文を受けたりして、作品的にも、財政的にも最盛期を迎える。弄山の死後もその妻や使用人が後を継いで続けていたが、弄山の子供たちが陶器に興味を持た なかったため、廃れていった。
古萬古の特徴としては弄山が茶人の手すさびから始めていることから、楽、唐津、織部などの写ものが多いという点。あと造形的には精巧な盛盞瓶、輪花の雪輪鉢があり、意匠としては地文に更紗模様を散らした赤絵と、青磁器のような風合いの銅青磁、描かれている絵は、当時では一般的に見ることの出来ない、異国情緒あふれる題材、象や獅子、唐子やアルファベットの文様など、他の焼き物には見られない特色が多い。古萬古の印は「萬古」「萬古不易」が捺されてる。
【弄山の作品に「萬古不易」印が捺されているものはないと考える。】
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森有節・千秋兄弟は天性の器用さを生かして、様々な陶器を生み出し、作品として残していっている。
【与五左衛門と与兵衛兄弟の父与一郎の存在が近年明らかになってきた。与一郎は少なくとも文政頃には作陶をし始めている可能性が高い。】
有節らは作陶当初、弄山の萬古焼や、楽焼・織部など茶陶の写物から始めたと考えられる。有節は古物商であったともいわれ、モースの「日本陶器目録」のなかで、家業の在庫品の中から、弄山の陶器に上薬をかける処方に関する書物等を発見したことが陶工であった有節の飛躍のきっかけになったとしている。
【与五左衛門が古物商であったかどうかは全く不明である。「骨董舗」であったとの記載はあるが骨董≠古物ではない。】
写物といえば弄山の萬古焼と位置づけされていることが多いが、有節も唐津、朝鮮をはじめとする他陶の精巧な写を作っていたことが、彼の印銘が遺されている作品によって知ることができ、また「萬古」の印銘にしても、それだけで古萬古、有節萬古の区別もつきにくいところから、伝世のものの中には再検討しなければならないものもあると思われる。
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YOKKAICHI
江戸時代後期、四日市でのやきものは有節が萬古焼を再興する三年前の文政十二(1829)年に田端教正と上島庄助によって東阿倉川で信楽風のやきものが焼かれ、また弘化三(1846)年開窯、明治五(1872)年頃まで阿倉川に存在していた作陶不明粟田焼風の四日市焼があった(観古図説)。
【与五左衛門が天保二年に小向で開窯する以前に桑名で与五左衛門の父与一郎が窯を経営していたことが分っている。】
桑名では有節萬古の人気をうけて、型作りの急須を倣った桑名萬古が往来の盛んな旅人への土産品として作られ、天保十(1839)年頃から佐藤久米造を中心として制作が始まった。
【久米造は有節家の精巧な細工木型を改良し、それを広めたと考えられ、「久米造中心に」というのは疑わしくなってきている。】
このように有節萬古の復興に前後して桑名、小向、四日市の辺りにやきものの産地としての下地は整いつつあった。嘉永六(1853)年四日市末永で山中忠左衛門が開窯し、試行錯誤の結果、明治初頭に量産に成功、四日市港の開港や垂坂山の陶土の発見などにより、桑名萬古などを吸収してやきものの一大産地となっていった。
四日市萬古の特徴は、明治前半に陶土として使われた垂坂山の白土による作品、外国人の好みや外国事情を調査することによって需要を開拓するマネージメント力、量産品だけでなく確かな技術を持った職人の育成の三つが挙げられる。このことは萬古焼を始めた沼波弄山の萬古焼と、姿形は別物ではあるが根底に流れる大切なものが「萬古不易」であるといえる。