japanese pottery BANKO
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萬古焼といわれる所以については諸説あって定説はない。日本陶工傳には、
「而して萬古の稱は、将軍家より賜りしものともいひ、或い沼波家の宗號なりといふ説もあれど、要するに、萬古不易の語より出でし名稱と傳へらる」
とあり、萬古の命銘についてのいくつかの通説といえるものがあげられている。
●萬古不易説
萬古焼の「萬古」については、いつまでも変わらぬものという意味の「萬古不易」より弄山が採ったということが、前述の「日本陶工傳」の他にも、「陶器考」、「萬古由緒書」、「工芸志料」、「府県陶器沿革陶工伝統誌」など、一般的に萬古焼を説明する雑誌や、専門書、ホームページなどでも広く謳われている。「萬古不易」とは、松尾芭蕉が唱えた不易流行の「千歳不易」「一時流行」から採用したといわれる。
●将軍家拝領説
今ひとつの説として、前述の日本陶工傳にあるように「萬古」は徳川家より拝領したという説がある。謂れの具体性は全く確認できないが、弄山の萬古焼が江戸進出を果たしたのは将軍家より招聘されたとする説が文献の中に多い。それは「日本陶器目録」によると、
「沼波の技術はすぐに注目を集め、将軍の目に留まり、江戸へと招待され、そこで小梅村に窯を建てました」
とある。同様に「萬古由緒書」、「陶器考」等にも将軍からの招きによりとされている。江戸進出後、将軍家御数寄屋御用等も務めるようになったとし、「新編武蔵風土記稿」には十代将軍家治が、羅漢寺で萬古館次郎作陶の様子を上覧になったことが記載されている。また「萬古由緒書」には天明六(一七八六)年家治最晩年の年に後の十一代家斉とともにお成りになって台覧されたと書かれている。江戸萬古の最盛期は「新編武蔵風土記稿」に「安永天明の頃は最著名なるをもて」とある。それは弄山死後十年間ほど、ちょうど将軍家治のもと田沼意次が指導していた時代と重なる。萬古焼の面白いところは江戸の焼き物として「萬古焼」が認知されていたこともあげられる。
●屋号説
沼波家が商っていたのは回船問屋であったといわれ、揖斐川経由で美濃と桑名に行き来し、伊勢商人として江戸にも店を持つ豪商であった。屋号も「萬古屋」であったといわれている。その屋号から焼いたやきものに萬古と命名したという説がある。
沼波氏が「萬古屋」の屋号をいつから使用したかについては、弄山以前か、弄山時代か、弄山以降か、今のところ不明であるため、単純に商号、屋号より「萬古」としたという説には多少疑問が残る。