japanese pottery BANKO
since EDO genbun 1736
generation of BANKO
江戸時代中頃、萬古焼は伊勢のやきものとして全国に知られていた。その赤絵の斬新で他に例の無い器形と文様は、まさにこのやきもの特有のもので、萬古の萬古たる所以といえるだろう。また、萬古焼は日本陶磁の黄金時代、華やかな色絵が沸き立つ文化文政、天保にかけての時代に先立ち、元文から宝暦にかけて、ちょうど仁清、乾山の時代との橋渡しの時代に生まれたやきものといえる。そのことから、萬古焼は他陶に先駆けて仁清、乾山の精神を受け継ぎ、消化吸収してのち、文化文政、天保に活躍した頴川、木米、道八、永楽などに少なからず影響を与えたと考えられる。
萬古焼が隆盛した時代は、ちょうど江戸中期から後期に移る頃、将軍家治の世で田沼時代ともいわれている。江戸時代は幕藩体制の安定期に町人が台頭してきた京都・大阪の上方中心の元禄文化と、幕藩体制の矛盾が進行して江戸庶民を中心とした独特の化政文化がある。萬古が生まれたのはちょうど二つの文化の変わり目であったといえる。政治史的にも田沼時代の重商主義的な政策から一転、松平定信の寛政の改革が始まる頃終焉を迎えている。将軍献上品としての色鍋島もこの時期を境にそれまでの絢爛豪華な色絵は消え、決められた静深な画題のみを作るようになったとされる。
文化文政時代を中心とする江戸時代後期の文化は、江戸の経済的発展を背景に、それまで大名や富豪層で謳歌されていたものが、徐々に多数の庶民にまで広がり最盛期をむかえる。しかも、都市の繁栄、交通の整備、寺社参詣の流行、教育・出版の普及、商品流通の発達などにより、中央と地方との文化交流が進み、中央文化が地方に波及して、文化の内容も多種多様となったといわれる。
萬古の後に始まる頴川らの作陶は寛政の改革後の十一代将軍家斉親政によって世間の綱紀がゆるみ、一斉に花開いたという感がある。ただ色鍋島は文化文政の時代においても将軍家御用の装飾は元禄時代のような華美なものになることなく絵柄と固定化し、染付のみというスタイルを変更しなかったことからも萬古は江戸に近すぎたこととともに、早すぎた発祥が仇となったといえるのである。